「共同参画」2010年 1月号

「共同参画」2010年 1月号

コラム

赤松良子賞の受賞と女子差別撤廃条約
男女共同参画会議議員 実践女子大学人間社会学部教授
鹿嶋 敬

国連が女子差別撤廃条約を採択したのは1979年12月18日の第34回総会だった。同総会に日本代表として出席していたのが当時の国連公使・赤松良子さんである。それから30年後の昨年12月13日、私はその赤松さんから国際女性の地位協会・第13回赤松良子賞をいただいた。

同賞は国連公使を退任後、労働省婦人局長、ウルグアイ大使、細川内閣での文部大臣などを歴任された赤松さんの基金を基に1997年に創設された。私の受賞理由は女子差別撤廃条約、男女雇用機会均等法、男女共同参画社会基本法の普及・啓発にかかわり、「さまざまな方面で活躍する女性たちに大きな力と勇気を与えた」というもの。男性の受賞者は私が二人目だそうである。

たいした貢献などしていないことは受賞者本人が一番自覚しているが、女子差別撤廃条約の採択30周年、さらには男女共同参画社会基本法の制定・施行10周年という節目の年に賞をいただいたことを素直に喜んでいる。そして何といっても赤松さんは、私が新聞記者時代に取材で大変お世話になった人である。

女子差別撤廃条約採択後の男女平等の軌跡は、赤松さんの歩みに重なる。国連公使の任を終え、労働省婦人少年局長に就任したころから雇用平等法(法案ができる前は、一般的にこう呼んだ)の取材も過熱した。平等法ができれば社会が変わるという女性たちの熱い期待の一方で、そんな法律ができたら女性が会社を辞めなくなり、人件費が経営を圧迫して国際競争力を失うと経済界は反対し、ついには日本がつぶれるという亡国論まで登場、雑誌等をにぎわした。労働省内(当時)の一部からは私に、特ダネ提供を条件に「平等法をつぶす記事を書いてほしい」という働きかけまであった。そうした声を抑え、制定にこぎつけたのは赤松さんというバランス感覚に富んだ先見性のある事務局のトップがいたからである。

均等法以後は、私の取材対象は男女共同参画社会基本法に移り、その制定・施行に至る過程を見てきた。2005年に大学に移ってからは、男女共同参画会議議員として“内”から基本法を支える立場になった。

女子差別撤廃条約の何が画期的かといえば、前文にうたう、完全な平等の達成には「男子の伝統的役割を女子の役割とともに変更すること」の一文に尽きる。性別役割分業の否定を言っているのである。あらゆる分野に、男女が対等に参画する必要性を訴えているのだ。そして採択後30年が過ぎた今、その理念を発展させた形で男女共同参画社会基本法が存在する。

だが、なかなか理念通りには事が運ばない。昨年11月の男女共同参画会議で鳩山総理も認めているように、男性の意識などはまだ「世界の平均から遠いところにある」。国連の女性差別撤廃委員会からは昨年8月、一言で言えば日本は男女平等化のスピードが遅いというお叱りに近い最終見解も寄せられた。こうした注文にどう応えるかが、30年が経過した現在の課題だろう。

赤松さんは壇上で私に、「元気を出しなさい」という趣旨の言葉もかけてくれた。2008年5月に結納をすませたばかりの娘をボリビアでの交通事故で失った。今も絶望から立ち直れない私への配慮が身にしみた。男女平等に思いを寄せていた最愛の娘の遺志に沿うためにも、絶望の淵から立ち上がり、男女共同参画社会の形成という課題に尽力したい。

渥美 由喜
男女共同参画会議議員
実践女子大学人間社会学部教授
鹿嶋 敬