男性にとっての男女共同参画コラム 「落語と男女共同参画」

落語と男女共同参画。不思議な取り合わせのように思えますが、実は落語を取り上げた男女共同参画のフォーラムやシンポジウムが、これまでもたびたび行われています。

なぜ落語なのか?落語は現代に生きる私たちに、何を教えてくれるのか?これからの男女共同参画のあり方とは?落語の世界に見られる「多様性」に一つの答えがあるようです。自らも落語のフォーラムのコーディネイトや講演を行っている立教大学大学院 21世紀社会デザイン研究科・社会学部教授・萩原なつ子氏にお話をうかがいました。

なぜ男女共同参画に落語?

『男女共同参画』という言葉自身からくる堅いイメージを何とかしたかったんですね。そもそも、これまでの性別役割分業観や固定的な男らしさ、女らしさのから自由(フリー)になって、個々人が自分らしく、私らしく生きるために、やわらかな発想を持とうというのが男女共同参画の目的です。。「こうあらねば」と、活動する側も、受け取る側もちょっと堅苦しく考えがちになってしまっているところがあるのではないでしょうか。 それを、落語とコラボレーションすることで、普段は、男女共同参画のことに関心を持たないような人たちに「落語が聴けるのなら、行ってみようか」と男女共同参画を考えるフォーラムに足を運んでいただけるきっかけになるようなものにしたいと考えました。一見全く接点がないものを組み合わせ、そこから何か新たな価値が創りだされこと、それが、コラボレーションの醍醐味だと思います。

実は、落語の咄には男女共同参画のテーマに相応しい内容のものが少なからずあります。先日の福岡でのシンポジウムでは、柳家さん喬師匠に『百年目』を演じていただきましたが、この咄は、つまりは主人公である大店の番頭さんが、『番頭』という枠に自分で縛られてあたふたするというストーリー。こうした咄を聞くことにより、心の抽斗にちょっとした気づきを入れて帰っていただければと思っています。気づきは行動につながりますから。

複数の顔を持つ時代

1999年に男女共同参画社会基本法が施行されましたが、もともと女子差別撤廃条約の批准からスタートしていますから、男女共同参画というと、これまでは「女性のための活動でしょ?」と思われることが多かったのです。しかし、これからの男女共同参画は、男性も女性も一人一人が、当事者として、『自分ごと』として捉えていただきたいと思っています。

私の専攻は環境社会学ですが、以前は講演の内容も「ジェンダーってなあに?」というそもそものところから説いていました。今は「自分の生き方を自分で選択できる社会にしていきましょう」というところに重点をおいています。多様性=ダイバーシティの実現ですね。働いている方、特に男性は、この部分が苦手な方が多いのではないでしょうか。

私は、一人の人が2枚目、3枚目の名刺を持つことをお勧めしています。個人が複数の顔を持つ時代、パラレルキャリアの時代だと。終身雇用の時代が終わり、会社だけ、お金を稼ぐ仕事だけに人生を預けていていいの?という疑問が、さまざまな方の中に出てきました。これまでは、定年後に新しいことを探すパターンが多かったのですが、これからはそれでは遅い。複数の顔は、今の仕事と平行して、パラレルに一生続けていけることを持ちましょうよ、という提案なんです。NPO活動や地域活動に参加する、学びの時間、場を持つ等、私たちはいろんな顔を持っていていいと思うのですね。パラレルキャリアを実現するには、ワークライフバランスが必要なのです。

『ワークライフバランス』というと、バランス=50:50のように連想してしまうのですが、そうではなく、『ハーモニー』、調和が大事です。一人一人がいくつになっても、どのような状況でも『居場所』と『出番』を持てることが必要。NPOも、その受け皿となればいいと思います。

落語家は、一人の人間がいろんな顔を演じ分けます。そして、2通りの『おかしさ』――面白おかしさと、「ん?何か変だぞ?」という意味でのおかしさ、その両方の『おかしさ』に気づくことができるのが落語です。「百年目」で言えば「そんなに顔を隠して、こそこそする必要などないんじゃない?」「番頭さんももっと自由でいいのかも」と、大笑いしながらも自分自身の生き方を振り返り、何かに気づいていただければ、落語と男女共同参画を結びつけた意味があるというものです。