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第1部 男女共同参画社会基本法制定に至る男女共同参画政策の経緯

第1章 戦後(昭和20年)から国際婦人年前(昭和40年代)まで

1.日本国憲法の制定

我が国の男女共同参画社会の形成は、戦前から婦人参政権運動なども進められていたが、大きな転機は戦後になっての婦人参政権、日本国憲法の制定にある。例えば選挙権、被選挙権については大正14年法律第47号衆議院議員選挙法(全部改正)により男子普通選挙が実現したが、女性の参政権は認められていなかった。

女性の参政権問題については、戦前から運動が続けられてきたが、戦後10日目には市川房枝他が戦後対策婦人委員会を結成し、同委員会は9月24日には政府・両院及び各政党に対する婦人参政権など5項目の要求を申し合わせた。10月11日にGHQが参政権の賦与による日本婦人の解放を含む5大改革を指示したが、10月9日に成立した幣原内 閣はGHQ指示の前日の10日には独自に普通選挙法(婦人参政権)改正を決定した。これは戦前からの婦人参政権運動の成果でもある。これを踏まえ第89回臨時議会で衆議院議員選挙法改正案を提出し、同法案は12月15日に成立、17日に公布され20才以上の男女に平等な選挙権が認められ、翌昭和21年4月10日に戦後第1回総選挙で初の婦人参政権が行使された。その後、参議院(昭和22年2月)、地方議会(昭和21年10月)についても男女平等の取扱いとなり、これらの法律は昭和25年5月に公職選挙法(昭和25年4月15日法律第100号)に統合された。

なお、昭和21年11月3日に公布された日本国憲法中の参政権の規定(第44条)においても性別による差別禁止が規定されている。(注:国レベルでの婦人の参政権は1893年に世界で初めてニュージーランドで認められた。その後は、 例えば、イギリス1918年、アメリカ1920年、イタリア1945年、フランス1946年、韓国1948年。)

男女共同参画社会基本法(以下、本資料において「基本法」としているのは特別な場合を除き、男女共同参画社会基本 法のことを指す。)は、その前文において「我が国においては、日本国憲法に個人の尊重と法の下の平等がうたわれ、男女平等の実現に向けた様々な取組が、国際社会における取組とも連動しつつ、着実に進められてきた」と記している。基本法に定める基本理念の最初の項目である「男女の人権の尊重」は日本国憲法までその源を遡ることができる。

日本国憲法は、まず第13条において「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民 の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。」と規定し、同第 14条第1項において「すべて国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、 経済的又は社会的関係において、差別されない。」と規定している。これらの条文はそれぞれ個人の尊重、法の下の平等をうたったものである。

この原則に基づき、憲法上も「居住・移転及び職業選択の自由」(第22条第1項)、「家族生活における個人の尊厳と 両性の平等」(第24条)、「教育を受ける権利、教育の義務」(第26条)、「議員及び選挙人の資格」(第44条)等女性の地位向上にとって最も重要かつ基礎的な部分が明記された。さらに、これらの理念に沿う形で、教育基本法の制定により教育の機会均等、男女共学が規定された。また、民法の改正によって、旧来の「家」制度に関する規定や妻の財産に対する管轄権の廃止などの夫婦の平等を基本原理とした規定が整備されるなど、様々な法制上の措置が順次とられていった。

2.戦後(昭和20年(1945年)~昭和29年(1954年))

(1)国際的な動向

昭和20年(1945年)6月26日、米国サンフランシスコで国際連合憲章が署名され、国際の平和及び安全を維持する こと、社会的・経済的発達を促進すること、人種、性、言語又は宗教にかかわらず、すべての個人の権利と基本的自由の尊重 の助長奨励という国際連合の3つの目的が示された。51か国の加盟により国際連合が成立したのは昭和20年(1945年)10月であ るが、早くもその年にはパリで世界婦人会議が開催され、国際民主婦人連盟が結成された。翌21年(1946年)にロンドンで開催された第1回国連総会では、前米国大統領の妻であり、かつ国連代表であるエレノア・ルーズベルトが「全世界の 女性」にあてた公開状を読み上げ、国内及び国際問題への女性の参加の奨励等を呼びかけた。

また、国連憲章に基づき経済社会理事会に設立されていた人権委員会は、昭和21年(1946年)2月、その下に婦人の地位小委員会を設立することを決議した。同小委員会は、4 か月後の同年6月には人権委員会と同等の立場に格上げとなり、婦人 の地位委員会(CSW)となった。昭和22年(1947年)2月には第1回会合が開催されている。

国連ではその後、世界人権宣言(昭和23年(1948年)12月10日、国連総会で採択)、人身売買及び他人の買春からの搾取の禁止に関する条約(1950年署名開放、昭和33年7月30日条約第9号)、婦人の参政権に関する条約(1953年 批准開放、昭和30年10月11日条約第15号)など女性の人権に関する取組が進められ、我が国もこれに対応していった。

(2)国内における取組

昭和21年4月の第22回衆議院選挙では39人の女性議員が当選する他、警視庁において初の婦人警察官の採用 (昭和21年4月)、労働基準法の制定(昭和22年4月7日法律第49号。男女同一賃金、女子保護規定の明確化)、教育の機会均等等を定めた教育基本法(昭和22年3月31日法律第25号)及び学校教育法の制定(昭和22年3月31日法律第26号)、姦通罪の廃止(刑法(明治40年4月24日法律第45号)第183条が昭和22年法第123号により削除)、 第1回公務員採用試験での女性の合格(30名、昭和24年2月)、第1回婦人週間の実施(昭和24年4月)等が行われ、 国際的にも国際労働機関(ILO)への加盟(昭和26年6月)などが行われた。

売春問題は、昭和21年に連合国最高司令官から日本国政府に「日本における公娼制度廃止に関する覚書」が公布され、ついで昭和22年に勅令9号「婦女に売淫をさせた者等の処罰に関する勅令」が施行され、明治以来続いていた公娼制度に終止符が打たれた。しかし、単独法がなく施策が不十分であり、昭和28年(1953年)に内閣に売春問題対策 協議会が設置され、対策が続けられた。

また、昭和22年9月に労働省の発足及び婦人少年局の設置、昭和23年5月に労働省に婦人少年問題審議会が設置され、その後、「売春等処罰法案に対する建議書」(昭和23年10月)、「女子の職場拡大方策中、看護婦問題についての答申書」(昭和24年2月)、「女子年少者労働基準規則改正についての建議書」(昭和29年2月)、「未亡人等の職業対 策に関する建議書」(昭和29年9月)等が出された。なお、婦人参政権の行使の日を記念し、労働省は昭和24年以来、4月10日に始まる1週間を「婦人週間」と定め、女性の地位向上のための啓発活動を全国的に展開した。(平成10年に「女性週間」と名称変更。)

これらの女性の地位向上に係る重要な施策は、サンフランシスコ講和条約(昭和26年(1951年)9月8日署名、昭和27年 (1952年)4月28日 条約5号)によってGHQの占領政策が終了されるまでに行われたものが多い。

3.昭和30年(1955年)~昭和39年(1964年)

(1)国際的な動向

昭和31年(1956年)12月、我が国は国際連合へ加盟した。同32年(1957年)5月に国連婦人の地位委員会の委員国 に初当選し、谷野せつが委員(任期3年)となった。

国連では、対価と引き換えの婚姻等の問題を含む「奴隷制度、奴隷取引及び奴隷制度に類似する制度及び慣行の廃止に関する補足条約」(1956年9月7日作成)、「結婚婦人の国籍に関する条約」(1957年2月20日作成)、「婚姻の同意、婚姻の最 低年齢及び婚姻の登録に関する条約」(1962年12月10日署名開放)などの取組を進めた。

国連教育科学文化機関(UNESCO)においても昭和35年(1960年)の総会で「教育における差別待遇の防止に関する条約」及び 「勧告」が採択された。

この間、政治分野への参画も進み、昭和35年(1960年)には、シルマウォ・バンダーラナーヤカ(シリマボ・バンダラナ イケ)がスリランカ首相に就任し、世界初の女性首相となった。

なお、昭和38年(1963年)にはソ連で世界初の女性宇宙飛行士が誕生した。

(2)国内における取組

昭和31年3月に総理府に売春対策審議会が設けられ、売春防止法の立案がなされ、同31年5月に法案提出(昭和31年5月2日法律第118号)、同33年4月に施行された。

女子教職員産前産後の休暇中における学校教育の正常な実施の確保に関する法律(昭和30年8月5日法律第125 号。同36年11月に女子教育職員の出産に際しての補助教育職員の確保に関する法律と改正)、文部省社会教育局に婦人教育課設置(昭和36年5月)など教育面での男女共同参画施策も進められた。

また、母子福祉法(昭和39年7月1日法律第129号。昭和56年に母子及び寡婦福祉法に改称)が施行された。

政治分野への参画では、昭和35年7月には、中山マサが厚生大臣に任命され、我が国初の女性大臣となった。さらに昭和37年には近藤鶴代が科学技術庁長官に任命された。

4.昭和40年(1965年)~49年(1974年)

(1)国際的な動向

昭和40年(1965年)、国際労働機関(ILO)は、「家庭責任をもつ婦人の雇用に関する勧告(第123号)」を採択した。なお、これ以前 にもILOは「同一価値の労働についての男女労働者に対する同一報酬に関する条約」(1951年第100号、昭和42年9月7 日条約第15号)、「雇用及び職業についての差別待遇に関する条約」 (1958年第111号)等を採択している。

国連では、昭和41年(1966年)、「経済的、社会的及び文化的権利に関する国際規約」(昭和54年8月条約第6号)を 採択、昭和42年(1967年)11月に国連総会において「婦人に対する差別撤廃宣言」が採択された。さらに昭和47年(1972 年)12月には国連総会において、昭和50年(1975年)を国際婦人年とし、男女平等の推進、経済・社会・文化への婦人の 参加、国際平和と協力への婦人の貢献を目標に世界的な活動を行うことが決定された。

また、世界人権宣言採択20周年を記念して、昭和43年(1968年)を国際人権年とし、国連の人権活動を拡大した。会議はテヘランで行われ、現代における女性の人権という論点も主要テーマであった。

政治分野への参画も更に進み、昭和41年(1966年)にはインディラ・ガンジーがインド首相に就任し、以後、ゴルダ・ メイヤー(イスラエル首相:昭和44年(1969年))、イザベル・ペロン(アルゼンチン大統領:昭和49年(1974年))が就任している。

(2)国内における取組

昭和40年には、母子保健法(昭和40年8月18日法律第141号)が成立した。昭和43年には電電公社(NTTの前身)が育児休職制度 を本実施し、昭和45年には長野県上田市が地方公共団体で初めて女子職員の育児休暇制度を実施した。

国内組織については、昭和42年に総理府に、「婦人関係の諸問題に関する懇談会」が設置され、昭和43年には家庭にいる中高年婦人が職業を持つことについての提言が出された。この懇談会は昭和47年に「婦人に関する諸問題調査会議」となった。

また、国際婦人年の開催決定に伴い、昭和49年10月には労働省が国際婦人年国内連絡会議を開催、昭和49年11月には外務省が国際婦人年のための関係各省庁連絡会議を設置した。

政策決定への参画に関しては、縫田曄子(NHK解説委員)が昭和46年6月に東京都民政局長に就任し、日本の地方公共団体で初の女性局長となった。

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