コラム3 高等女学校における良妻賢母教育

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コラム3

高等女学校における良妻賢母教育


戦前の高等女学校は,当時の女子が尋常小学校を卒業してから進学する場合の中等教育機関1であったが,科目内容などから,主に良妻賢母の育成を狙いとしたものであったことが分かる。明治32(1899)年の高等女学校令において,「女子ニ須要ナル高等普通教育」を行う中等教育機関として,男子の旧制中学校に対応する存在として,制度化され,各道府県に最低一校の女学校の設置が義務付けられた。高等女学校では尋常小学校を卒業してから3~5年の期間を過ごした。その後の進学先としては,女子の高等教育機関である女子高等師範学校や女子専門学校があるが,これらの高等教育機関への進学率は戦前期を通じて1%に満たなかったことから,高等女学校は,戦前期の女子の実質的な最終教育機関であったともいえる。

当初は,尋常小学校の就学率の低さも反映して高等女学校への女子の進学率は5%に満たなかったが,尋常小学校への就学率がほぼ100%に達するとともに進学率も上昇し,大正14(1925)年には進学率が15%近くに達し,当時の男子の進学先であった旧制中学校の在学者数を上回るようになる。そして昭和20(1945)年には約25%に達している2

しかし,高等女学校への進学率の上昇は,女子の就職のためのスキルの育成への需要の高まりを反映したものとは言いがたい。高等女学校のカリキュラムを見ると,「国語」,「数学」,「歴史」,「外国語」などの一般科目だけではなく,「家事」,「裁縫」等の男子の旧制中学校にはない科目が設定されている。また高等女学校における正級長3任命の基準が,同じ地域の旧制中学校と異なり,成績だけではなく,親切・謙譲・円満など周囲に対する配慮が重視されていたという事例4が指摘されている。さらに卒業生の卒業直後の進路を見ると,多くが「家庭」となっており,就職した者の割合は極めて低い5。また文部大臣の樺山資紀が明治32(1899)年の地方視学官会議において,「高等女学校ノ教育ハ其生徒ヲシテ他日中人以上ノ家二嫁シ,賢母良妻タラシムルノ素養ヲ為ス二在リ」と述べており,高等女学校には,良妻賢母の育成が期待されていたことがわかる6

高等女学校の教育方針には地域により多様性も見られた。教科外の活動について,郡部の高等女学校においては,農作業や花壇作りなどの共同作業が重視されていたのに対して,都市部の高等女学校においてはこのような共同作業はあまり見られず,近代的・科学的な育児方法の講演や幼児教育施設の見学などが重視されていたことも指摘されている。良妻賢母のイメージは,地域の状況により異なるものであったことがうかがわれる7

1当時,尋常小学校を卒業した後の主な進学先は,男子が旧制中学校,女子は高等女学校とされていた。

2以上,稲垣恭子「女学校と女学生 教養・たしなみ・モダン文化」(中公新書,平成19年)4~6頁。

3正級長とは,「学校側の命令・指示を学級生徒に伝達する」,「教員の指揮に従いながら,他の生徒を統率し,学級の秩序を保持する」役割を担う生徒の役職である。ほとんどの場合,学校長や担任教師からの任命により決定されていた。正級長に次ぐ役職として,副級長が存在した(土田陽子「公立高等女学校にみるジェンダー秩序と階層構造」(ミネルヴァ書房)113頁。

4県立和歌山高等女学校の事例。土田陽子「公立高等女学校にみるジェンダー秩序と階層構造」(ミネルヴァ書房,平成26年)112~135頁。

5吉田文「高女教育の社会的機能」天野郁夫編「学歴主義の社会史」(有信堂,平成3年)125~128頁。出所「全国高等女学校実科高等女学校二関スル諸調査」。

6文部省「学制百年史」(帝国地方行政学会,昭和56年)。土田陽子「公立高等女学校にみるジェンダー秩序と階層構造」(ミネルヴァ書房,平成26年)2頁。

7土田陽子「公立高等女学校にみるジェンダー秩序と階層構造」(ミネルヴァ書房,平成26年)3頁,108頁。